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一級建築士事務所 Eee works
探訪記
探訪 | 軍艦島
世界文化遺産
1891-1974
世界文化遺産 1891年から、1974年の閉山まで、三菱合資会社の炭鉱島として発展した
正式名称『端島』という長崎県の島で、2015年に世界文化遺産に登録。
もともと、『軍艦島』は、長崎県の沖合に位置する岩礁でした。
佐賀藩によって小さな炭鉱として石炭を採っていたものを、1890年(明治23年)に三菱合資会社が本格的に操業を開始。
およそ20年後から炭鉱夫の住まう住居、その他娯楽施設、最終的には学校も建設し、島としての形を成したものが、三菱長崎造船所で建造された軍艦『土佐』に似ている。ということで名付けられた島だと言われています。
今回の探訪は、軍艦島の深いところまでの見学は『不可』を前提に、空気感を感じること。日本初の鉄筋コンクリート7階建(高層7階が日本初)の30号住居棟の見学。を目的の探訪となりました。
長崎港から専用船で約45分で
『軍艦島』到着。
上陸は、現地判断で、波が高く危険と船長が判断した場合は、ここまで来ても『上陸不可』となってしまいます。
船長は絶対です!
この日は、波1.5mとのことでしたが、大きく揺れながら接岸、ドルフィン桟橋から、無事上陸となりました。上陸しても頭は揺れている感じです。
見学の最初は島から出荷される石炭の貯炭場とベルトコンベアの橋脚跡から。
石炭は、採掘された石のうち『ボタ』という石炭にならない石と製品になるものに選別され、石炭は貯炭場に、ボタは海に捨てられます。
上の建物は『幹部用の4階建社員住宅』で貯炭場を見下ろす。の構図です。幹部用の住宅は、風呂付きで、給料は島外の一般職に比べ桁違いに高く、島内の幹部をはじめ、炭鉱夫も暮らしぶりは『3種の神器は当たり前』と結構裕福だったそうです。
最盛期は人口5300人と、人口密度は当時の東京都を9倍も上回るほど。
写真の奥の建物は、1958年に建設されたRC7階建の端島小中学校、同体育館ですが、最盛期の生徒数は800人を超え給食設備もあり、相当大きな小中学校であった様です。
主力の第二竪坑へ行くための桟橋です。
ここから、地下606mまで、工事用EVで一気に降下、そこから横移動し最深部1000mを超える坑道内で採掘作業をしていたそうです。
坑道内は気温30度・湿度95%。
と光もない想像出来ないほど過酷であったと思います。
ここから戻った炭鉱夫は地上に戻った安堵感から皆真っ黒に汚れた顔をくずして安心した様子だったそうです。
最後は、1916年(大正5年)に建築された30号炭鉱夫住宅
これが日本最古の高層コンクリート住宅ということらしく、築102年。
102年海風に、また台風時は直接海水を受け続けた建物は、柱は縦に割れ梁も裂け、いつ倒壊してもおかしくない状況です。この状況から、軍艦島保存計画の保存建物に認定されないらしいです。
次回は倒壊している可能性もある。
建物の計画は、中央に中庭のある回廊の計画になっていて、当時の島の暮らしが、『ひたすら過酷な労働に耐える』という事だけでなく、海水、海風を避けた中廊下は、井戸端会議など『暮らしの質』にもスポットが当たっていたと思われる計画で、『石炭全盛期の暮らしと思考』がいかに豊かであったかが垣間見える建物でした。
その後、石炭から、石油にエネルギー需要が移り変わり、1974年に閉山するまでは、まさに『資源国』を謳歌していたのだと思います。
戻れる保障のない1000Mもの地下に宝を求める様がその威力を物語っています。
現在エネルギーは、地下資源から、太陽光や風力など地上に無料で降り注ぐ
『原価0円の資源』にシフトしつつあります。
しかし、過去にこの過酷な炭鉱から『戻れていない』炭鉱夫を含め過酷な状況を乗り越えた苦労の上に今の豊かさがあることもよくわかりました。
軍艦島の最深部。特に65号棟など見学したかった場所はたくさんありました。しかし、この空気感に触れることができた事。
もし、最深部に行くチャンスがあればやはり行きたいと思えたことは大きな収穫であったと思います。
『ご安全に!』
ここで交わされた言葉は心からの言葉であったと思います。
また、探訪したい場所となりました。
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